禁断の科学裁判
 
−−−ナウシカの腐海の森は防げるだろうか−−−


新しい神学と瞬間主権者の終わりをめざして (第1稿)

柳原敏夫(本訴原告代理人。世界市民へのロードマップ
1.31.2006

 アトムの時代に育った私は基本的に科学の子です。私にとって最高の教育者であった遠山啓は、かつてこう言いました。

「数学とはひねくれたむずかしいものではなく、その反対にバカバカしいほど簡単な事柄を根気よく積み重ねたものにすぎない。我々はひねくれるために数学を学ぶのではなく、もっと素直にもっと大胆になるために数学を学ぶのだ」(ここで、数学を科学と置き換えてもよい)

 また、彼はこうも言いました。

「直角三角形に関するピタゴラスの定理は経験的には既に古代エジプトで知られていた。しかし、ピタゴラスが偉いのはそれを証明してみせたことである。証明するまでは、たとえどんなに偉い王さまであろうともそれを主張することは許されない。他方、たとえどんな馬の骨でも、証明さえできれば認められる。これが数学そして科学の精神である。」

 パソコンの時代に青春時代を送った私は、一時期でしたが、パソコンお宅でした。パソコンは、様々なハード・ソフトの部品からなる汎用性をもった模擬生命ともいうべき機械ですが、或る部品を組え替えたとき、単品では問題がない筈なのに、それが特定の様々なハード・ソフトの部品の中に置かれたとき、思ってもみなかった悪さ(不具合)が発生することをまま経験しました。そして、メーカーが、そうした不具合に対して、パッチという処方餞を用意するときも、「このパッチは、あくまでも○○の不具合を解決するためのものであって、それ以外にどんな問題を発生させるかについてまで関知しません。それを覚悟して使用してもらいたい」という注意書きを忘れませんでした。つまり、パソコンの世界では、或る部品を組み替えたとき、その組替えによってパソコン全体にどのような影響をもたらすのか、その相互作用の全体像を認識することが不可能であり、どんな悪さが発生するかは予見不可能であることは常識でした。

 生命の高々機械的な模倣でしかないパソコンですら、部品の組換えがもたらす相互作用の全体像を認識することが不可能であるのに、ましてや、生命そのものについて、その核心の部品である遺伝子についてその組換え(正確には追加)によって、ゲノム中の他の遺伝子産物との間にどのような相互作用をもたらすことになるのか、その相互作用をすべて認識することが不可能なのは、自明のことのように思えました。つまり、遺伝子の組換えがもたらす相互作用により、どんな悪さが(不具合)が発生することになるのか、機械であるパソコンですら認識不可能ならば、生命体ではなおさらお手上げなのは、自明のことに思えました。

 そのような目から見れば、今回の遺伝子組換えイネの実験が持つ様々な危険性についても、地元住民から疑問が寄せられたのはまったく自然のことに思えました。

 だから、遠山啓なら、「今こそ、科学はおのれの存在意義を市民の前で高らかに示すべきである、よって地元住民の人たちの疑問に真正面から立ち向かうべきである」と言ったでしょう。なぜなら、科学とは本来、人をちょろまかすためのものではなく、誰に対しても開かれた、明晰で納得がいくものだからです。そして、その際の態度は、唯一、証明の精神あるのみでした。

 ところが、実際のところ、今回の遺伝子組換えイネの実験を実施した北陸研究センターが、疑問を出した地元住民の人たちに取った態度は、およそ、誰に対しても開かれた、明晰で納得がいく「証明の精神」とは正反対のものでした。そして、自らの非科学的な態度は棚に上げて、裁判を起こした地元住民の疑問・不安に対して、

そもそも一般的な高等教育機関で教授ないし研究されている遺伝子科学の理論に基づいた主張を展開しているものではなく、遺伝子科学に関し聞きかじりをした程度の知識を前提に特定の指向をもった偏頗な主張を抽象的に述べているに過ぎず、また法的に考察しても非法律的な主観的不安を書きつらねただけのものとしか評価しようがなく、債務者としてはかような仮処分が申し立てられたこと自体に困惑するばかりである。
本申立について、一刻も早く却下決定を賜り、債務者を本手続から解放いただきたい
。」(答弁書19頁)

という傲慢不遜な態度を取ったのです。なぜ、彼らは科学の唯一の武器である「証明の精神」を思う存分発揮し、実験の安全性をとことん証明することをしないで、こんなチマチマした愚痴、苛立ち、不平不満を並べたのだろうか。

 もともと紛争は人生のリトマス試験紙です。人は紛争という嵐を前にして、否応なしにわが身の正体を思う存分あらわにするのです。昨年、地元住民が、これまで地元の氏神様のような存在だった北陸研究センターを相手に、実験中止の裁判を起こしたことは、北陸研究センターにとって青天の霹靂だったにちがいありません。その意味で、提訴直後の上の言葉には、はからずも、彼らの偽らざる真情が吐露されています。だから、私の驚きは、この人たちは、ここまで科学的精神=証明の精神を喪失しているのか、という発見でした。
 つまり、彼らがやっていることは、地元住民の人たちから見ると、万人に開かれた証明によってではなく、「国家プロジェクト」という権威でまかり通すというやり方であり、それは、遠山啓が指摘した「たとえどんなに偉い王さまであろうとも、証明するまではそれを主張することは許されない。それが科学の精神だ」を真っ向から否定するものでした。その姿は、マックス・ウェーバーが指摘した、(彼が直接言及したのは社会科学ですが)科学は中世神学が転化した「新しい神学」であり、今や科学者は神学的真理を伝承する坊主である、を思い起こさせるものでした(山之内靖「マックス・ウェーバー入門」224頁【岩波新書】)

 もっとも、もし、そうした科学的精神=証明の精神の喪失が、彼らのことだけで済むのなら「勝手にしてくれ」です。
 しかし、今や彼らの遺伝子組換えの仕事は、生態系の破壊や人体の健康被害といった形で私たちの運命まで否応なしに巻き込みます。それは、農薬使用量を減らすといった彼らの主観・動機がどうであれ、そんな主観とは全く関係なしに、客観的にそういう影響を及ぼす仕事なのです。
 だとしたら、或る科学者がこの実験中止の裁判の判決を読んで感想を書いたように、私もまた
――こんな非科学的な科学の暴走によって、人類の将来が脅かされるのかと思うと、ものすごい憤りを感じます、
と思わざるを得ません。
 
 憲法では、主権者は我々個々の市民とされています。
 しかし、その実態は、我々市民は決して政治の舞台の主役ではなく、あくまでも観客として指導者たちに拍手喝采する役割しか与えられず、数年に1回、投票箱に一票を投じて、自分たちの指導者を選出するだけで、それが済んだらさっさと家に帰って、めいめいの仕事に戻り、ものを消費し、テレビを観て料理を作り、人に迷惑なことをかけないようにするというシステムとなっています。
 こうした投票の瞬間だけ主権者となる「瞬間主権者」という民主主義のシステムが様々な歪み・腐敗を生んだことはウンザリするくらい経験済みですが、その最たるものとして、ここで取り上げた「科学の暴走」という事態があります。ましてや、それが今回のように国家プロジェクトと称して国家の手で推進されるとき、国家の指導者たちによる是正は期待不可能であり、我々市民はもはや瞬間主権者の地位に甘んじることは不可能となります。
 そして、これが今では、科学の日常的な光景なのです。だとすれば、私たち市民もまた、好むと好まざるに関わらず、定期的に投票箱に一票を投じておしまいという瞬間主権者のシステムを根本から見直さざるを得ない時点にまで来ています。

 「暴走する科学に対する市民の制御=シビリアンコントロールはいかにして可能か」
という今世紀の最大の課題がこの裁判を通して問われていることを、この事件を鏡にして考え続けていきたいと思います。

(第1稿)

戻る