禁断の科学裁判
 
−−−ナウシカの腐海の森は防げるだろうか−−−

「バイテク・センチュリー」ノート 
柳原敏夫(法律家)  6.6.2004

はじめに
 
以下のノートは、「エントロピーの法則」などで知られるアメリカの文明批評家ジェレミー・リフキンのバイオテクノロジー革命がもたらすものについて考察した作品「バイテク・センチュリー」(日本語版は1999年4月、集英社刊)を読みながら、書き留めた記録です。

 ここには、バイオテクノロジー革命が物理学の革命から始まった近代文明がその後辿ったもろもろの成果の一大集約点であること、いってみれば我々の文明の到達点であることが明らかにされ、それゆえ、同時にこれが文明の光と影の両方に渡って決定的な出来事に遭遇するであろうことを示唆するものです。

 私のようなズブの素人には、難しい専門的知識の説明より、たとえ仮説にせよ、こうしたパースペクティブ(大局観)をもって事態を説明しようとする書物のほうが入門編としてありがたいものです。

 これを読んだとき、私の後半生の方向が決まりました。そのことをその夏の書中見舞いで、こう書きました。

少し前ですが、ようやく私の後半生の方向が決まりました。

ジェレミー・リフキン「バイテク・センチュリー」(集英社)
という本と出会ったおかげです。

私は、医者になります(^_^)。
というか、
「遺伝子工学」
「リスク評価学」
「予測生態学」
をマスターしたい。

そのために、今、特許の専門家になる準備をしております(もっか、その方面の専門家について修行中です)。
少し前に、青色発光ダイオードの中村修二の弁護士事務所に勤務したいとラブレターを書きましたが、あんなゆうちょなことをしている場合ではない。

もっとダイレクトにやる必要がある(^_^)。

昔、有志と著作権の勉強会をやっていて、それが変節して、数学の勉強会になりましたが、あれが実は、挫折してしまいました。
しかし、今回、遺伝子工学を知る中で、その原因が目からウロコガ落ちるように分かり、今度は、ぜったい挫折しないでやる見通しが持てました。
今度こそ、マトリックスも量子力学もサイバネテックスも身を入れて取り組めます。

だから、もういっぺん、数学と物理の勉強を再開します(医者やリスク評価学のマスターのために必要なんです)。

一言で言うと、先日、カンヌ映画祭でパルムドールを取ったマイケル・ムーアみたいな気分です。

 1年後、それが実現する羽目になりました。それがこの禁断の科学裁判です。
願ったからといって夢は実現するものではない、しかし、願わなければ夢は絶対実現することはない−−今回もまた、この真理を確認することができました。

このノートに興味を持った人は、是非、本書「バイテク・センチュリー」(日本語版英語版)を読んでみて下さい。


「バイテク・センチュリー」ノート」全文

冒頭部分の抜粋

0、序――ノート作成の動機――

(1)、始源的なものはそれが成熟したときに視えてくる――科学のエッセンス、産業社会のエッセンスは今後のバイオテクノロジーの中で最もクリアに照らし出される筈である。

 だとすれば、過去の工業社会の光と影、物理・化学の光と影の体験を、バイオテクノロジーの時代の中でもまた改めて、しかも最も徹底した形で反復することになるだろう。

 だとすれば、ちょうど今、工業社会が、その影の体験の末に、(表向きにせよ)「環境に優しい」「持続可能な社会」を掲げたように、バイオ社会も、いずれ、そうしたスローガンを掲げるようになるだろう。

 しかし、そのために、人類は、これまで、被爆、公害といった工業社会、物理・化学がもたらした悲惨極まりない体験をくぐり抜けてこなければならなかった。

 だとすれば、今後、バイオ社会における「環境に優しい」「持続可能な社会」というスローガンを獲得するために、またしても同じような悲惨な体験を反復しなければならないのか。
――人類は、そこまで愚かではない。
 だとすれば、その悲惨な体験の反復を食い止めるために何が必要だろうか? 何が可能だろうか?
      ↓
このノートは、それを探求するために思い立ったもの。

(2)、もうひとつ。
 社会に新しいテクノロジーを根づかせ、発展させていくとき、推進者たちは、そのためには、単にその技術が優秀であるのみならず、それ以外にも、政治、経済、マスコミ、文化、教育、哲学など様々な分野でそれを支持し、サポートする全般的な動き、というより運動が企てられる――或る意味で、それは殆どマインド・コントロールに近い――が、もっか売り出し中のバイオテクノロジーは、こうした運動の生成過程をつぶさに観察するに打ってつけの対象である。

 そして、その観察から、我々が既にどっぷり漬かってしまい、マインド・コントロールされていることすら自覚しなくなってしまった工業社会のテクノロジーを支えてきた様々なコモン・センスと称する世界観、思想、哲学の正体を吟味する道が開けてくる筈。

 それは、現代の環境問題、消費者問題、人権問題の本質を考え抜く上で不可欠の作業である。


最終部分の抜粋

11、ジェレミー・リフキンの個人的な見解――オルタナティブなバイテクの探求――

(1)、私は、新しいバイオテクノロジーの導入に全く反対しているのではない。
問題は、どんな種類の科学やテクノロジーに賛成するか反対するか、である。
       ↑
あたかも、近代の夜明けに、宗教の批判者がヴァチカンから糾弾されたことと似ている。
この時、教会の公式の教義に異議を申立てるものはすべて神を否定する者とみなされた。
       ↓
しかし、神をあがめる方法は沢山あるのだ。
これと同じように、科学をほめたたえる方法もほかにまだ沢山あるということだ。
世界を遺伝子還元主義の立場から眺めることしかできないわけではない。
生態環境学のように、自然に対しより統合的でシステム全体を考えたアプローチもある。
この学問が遺伝子還元主義と違うのは、
後者が分離を好み、超然とすることを好み、力を応用して侵入することを好むのに対し、
前者は、分離より統合を好み、超然より参加することを好み、力の応用より社会的な責務やいたわりを好む。
       ↓
こうしたアプローチの違いは、実行の段階で、非常に異なった正反対の方向に進むことになる。

(a)、農業
遺伝子還元主義は、広範囲の生物界に対して防備を固め、独立した安全な避難所を作ることに努める。
生態環境学者は、ゲノム・データを使って、環境の影響と突然変異の関係について理解を深め、生態環境に基づいた農業科学――総合的な害虫管理、輪作、有機肥料、さらには農作地を栽培地の生態系の変遷の型と両立させる計画的で持続性のある方法を推進させることに努める。

(b)、医学
遺伝子還元主義は、変更された遺伝子を患者に組み込み、異常を「訂正」して病気の進行を抑えようとしている。
全体論的な立場は、環境誘因と突然変異との関係を探求し、より複雑で科学的な根拠に基づいた予防治療の理解を深め、その方法を確立したいと考えている。
            ↑
米国ほか工業国の死者の70%は心臓発作、卒中、乳がん、結腸癌、前立腺癌、糖尿病などの「富裕病」であり、食事やライフスタイルも含めた環境要因が突然変異の誘発を助長する主な要素であることは分かっている。そこで、この「環境誘因と突然変異との相互作用」を探求する必要がある。
  
では、なぜ、2つのアプローチはお互いに手を携えて協力し合うことができないのか?
              ↓
ビジネス界がてっとり早く儲けにつながる前者のアプローチを支持しているため。

(2)、科学者の偏見について
 分子生物学者の中には、あいかわらず自分たちのアプローチには偏見はなく、客観的で、価値観に囚われていない唯一の真実の科学だと信念を抱いている人がいるようだ。
             ↑
しかし、もともと、どんな研究者であれ、探求という行為には、常に、その研究者の先入観・世界観が暗黙の前提となっている。
ex. 科学やテクノロジーの「進歩」は、あたかも自然の進化や自然淘汰と同様であり、そこには何の制約もない、と。
     ↑
   ちょうど、芸術の「表現」にはあたかも自然の表現と同様であり、そこには何の制約もないと考える作家。
     ↓
  だから、遺伝子操作といったテクノロジー導入に反対することは、無分別で無益であり、自然に背くのと同様な無意味なことである。
  なおかつ、新しいテクノロジーの導入に対して、テクノロジーはもともと中立的かつ必然的なものだという理由で、それがどのようなリスクをもたらすかについて真剣な検討をする責任(←これこそ人類の責任というべきである)を免れている。
     ↑
そこで、こうした科学者が陥っている無意識の先入観・世界観を一度、徹底的に吟味し、批判しておく必要がある。
  ex. テクノロジーはもともと中立的かつ必然的なものか?
       ↑
      ノー
∵ テクノロジーはもともと我々の生物的肉体を拡大し延長したもの。その行使にあたって、誰か、もしくは環境の何かを必ず傷つけ、弱め、利用しているから。その意味で、テクノロジーは本来的に中立的であり得ない。
       ↓
 そうだとすれば、テクノロジーの行使にあたって、その規模や範囲が適切か、或いは途方もないものかを見極めなくてはならない。その問題を最も突き付けたのが原子力である。
 原爆と核エネルギーは物理学の離れ業としてト20世紀最高の科学的業績として登場したが、そのリスク・脅威はいかなる潜在的な利益をもしのぐという結論に達し、政策の転換を余儀なくされつつある。それを余儀なくさせたのは一般大衆だった。
   ↓
だとしたら、20世紀の物理学の真骨頂ともいうべき核テクノロジーに代わって、いま視界に入ってきた21世紀の生物学の真骨頂ともいうべきバイオテクノロジーに対して、いかなる新しい技術革命に問うて然るべき、入り口における危険な問いをここでも発することは全く要を得たものと思われる。
――この新しい遺伝子操作に本来備わった力は、適正な力の行使であろうか?
――それは、地球上の生物学的多様性を不安定にし枯渇させないだろうか?_
――それは、未来の世代及び我々の旅の道連れである生き物の選択の自由を守るものか、それとも狭めるものか?
――それは、生命に対する尊厳を促すものか、それともおとしめるものか?
――それは、すべてを考慮した結果、害より益をなすものか?

 バイオテクノロジー革命の主な参加者にとって、
無限の潜在的可能性を有している遺伝子操作が、部分的にせよ、否定されることなぞあり得ない
と思われるかもしれない。
     ↑
 しかし、我々は、高々つい一世代前に、核エネルギーを部分的にせよ放棄することを想像することなぞ、誰も考えつかなかったことを思い出すべきである(なぜなら、何しろ、それはエネルギーへのあくなき欲求を抱えた社会にとって究極の救済であると熱烈に歓迎されたのだから)。

 バイオテクノロジー革命がこれほど騒がれるのは、それは企業がそこから莫大な潜在的な利潤獲得を目指すからである。
 ということは、反面、人々が望む商品・サービスを提供するためである。人々が望まない商品・サービスを提供してもしょうがない。
 だということは、バイオテクノロジー革命の未来は、この商品・サービスを購入する我々消費者自身の意思・動機にかかっている。
 つまり、我々消費者自身の期待、欲望、精神的態度、価値観がバイオテクノロジー革命の未来を規定する。
 それを正しく行使するためには、バイオテクノロジー革命を正しく認識しなければならない。

 その永続的な啓蒙と実践の中で、バイオテクノロジー革命の未来が決定される。

 未来は消費者の手にかかっている。

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